2022年12月2日金曜日

創立121周年を迎えました!

 


 

 本校は、明治34年に万世尋常高等小学校として開校して以来、今日で、
121周年を迎えます。この歴史と伝統のある万世小学校は、創立以来、地域の方々の熱い思いに支えられながら、数多くの実績と栄光を積み重ねてこられました。


私たちは、この素晴らしい小学校の伝統を継承するとともに、新たな飛躍を目指して邁進していく所存であります。

地域に愛され、誰もが誇りに思える万世小学校、そして、「万世地区」が大好きな子どもたちを育んでいく教育活動を展開していきますので、今後とも、温かいご支援とご協力をお願いいたします。




お祝いの言葉 事務局長 6年 菊池璃一

 本日は、万世小学校創立121周年おめでとうございます。この歴史ある万世小学校のすばらしいところや未来に残していきたいことについて、四つ紹介したいと思います。

 まず一つ目に、「自分から進んで」「笑顔で 誰にでも 真っ先に 目を見て」あいさつをすることを目標に、日本一のあいさつができる小学校を目指していることです。学校内だけでなく地域の人達にも、自分から進んで元気に大きな声であいさつをすることに取り組んでいます。事務局の活動として、毎朝校門前であいさつ運動を行っています。あいさつ名人が一人でも多く増えるようにがんばっています。

 二つ目は、毎年六年生が梓山獅子踊りに挑戦していることです。伝統ある踊りを、地域の梓山獅子踊り保存会の方々から踊り方や着物の着方を教わって、何度も練習を重ねて披露しています。毎年学習発表会で踊る先輩方の姿を見て、自分も六年生になったら踊りたいなぁと憧れていました。これからも伝統を引き継いで、未来に残していってほしいなと思っています。

 三つ目は、万世小学校は自然に囲まれたすばらしい学校だということです。わんぱく山やどんぐり林では、虫探しで観察をしたり、おにごっこをしたり、冬にはスキーや雪すべりなどをしたりしています。万世小の子供ならどの子もたくさん遊んでいると思います。近くには万世大路や牛森山もあります。時々カモシカや熊が来て心配になることもありますが、とても自慢できる学校です。レンガ色の校舎もとてもすてきな校舎だと思います。

 四つ目に、今はコロナで開催できていませんが、地区運動会で地域の方々と一丸となって競い合ってきたことです。競技だけでなく、一ヶ月位前から公民館に集まって、大人も子供もみんなで地区ごとに工夫をしながら応援合戦の練習をしていました。地域の人との仲が深まったり、みんなで協力して作り上げていったりするのはとても楽しい時間です。

 このように、万世小学校は、他の小学校にはないようなすばらしいところがたくさんあります。ぼくは小学校入学に合わせて東根市から引っ越してきましたが、この六年間を万世小学校で過ごせたことをとても幸せに思います。卒業まであと四ヶ月ぐらいになりますが、万世小学校で出会った大切な友達や先生方と一緒に、最後まで楽しい学校生活を送り、新6年生に引き継いでいきたいと思います。そして、121周年という歴史ある学校で、ぼくたち一人ひとりが学校生活を送ることができることに感謝して、児童代表のスピーチとさせていただきます。

 



創立121周年記念式典 校長式辞

R.12.2 後藤 満男

 いよいよ米沢にも初雪が降り、本格的な冬が訪れようとしています。さて、今日は万世小学校の121歳の誕生日です。そこで、改めて万世小学校の歴史について話をします。 

 先ほど、皆さんは校歌を斉唱しましたが、この校歌の一番の「その名ゆかしき万世の郷」について考えてみましよう。  これは9月に5年生が登った万世大路ですね。この先にトンネルが2つありますが、明治時代に作られた右側のトンネルは誰の指示で作られたものですか?答えは薩摩藩出身、現在の鹿児島県出身の山形県最初の県知事、三島通庸(みちつね)です。

    話が変わって、明治の始まりは、新しい政治に対して不満を持つ人が多くいました。1868年の明治元年に江戸幕府軍と明治政府を支持する新政府軍が1年にわたって戦いをしました.戊辰戦争といっています。知っていますか?この戦いは京都の鳥羽伏見の戦いから始まり東北地方の福島の会津で激戦となりました。白虎隊って、聞いたことがありますか?山形県でも特に庄内藩で激戦となりました。特に、東北地方の諸藩は幕府軍に付いて新政府軍に最後まで抵抗しました。米沢藩もこの戦いに加わりましたが、北海道の函館で幕府が降伏した事で負けてしまいました。

  そこでクイズです。明治政府軍はその後、明治天皇をかついで新しい明治政府をつくりました。明治政府は、この戦いのあと、自分たちへ味方した藩、敵の藩とを区別するため、どんなことをしたか、知っていますか?次の中から、あるいは全部または全部なしのどれかに手を挙げてください。1番、2番、3番、全部あり、全部なし.正解は、全部ありです。県名と県庁所在地名が違うのはこの戦いからだというのが分かりましたか?ただ、山形県と福島県の県庁所在地は例外で、山形県は米沢市に、福島県は会津市に置く予定でしたが、一番危険な地域だったので山形県は山形市に、福島県は福島市に置いて、それぞれを監視したそうです。もし、米沢市が県庁所在地だったら、もう少し発展してたかもしれませんね。

   この戦いで一番心配したのが、明治天皇でした。特に、東北地方の人々は明治政府に一番抵抗していたので、明治天皇自らがこの戦いを早く終わらせるため、天皇は東北の仙台に都を置くことを決意し、京都を離れました。御輿(みこし)に乗り、何日も何日もかけて、大きい峠を3つ超え、ようやく江戸に到着しました。明治天皇は家来に言いました。ところで、仙台に行くには、あといくつの峠を越えなければならないのかと、そこで家来が言いました。3つです。そこで明治天皇はここでいい、といったそうです。それで江戸が東京と呼ばれ、現在も日本の都となったのです。

   それでも明治天皇は東北や北海道に行くことをあきらめませんでした。14年後の明治14年に東北・北海道の巡幸の旅に出ました。今と違い新幹線や車はなく、お付き人を350名ほど従え、それぞれの地域で500名以上が協力し、馬車(みくるま)や神輿(みこし)に乗って東京から2か月以上かけて旅をされました。米沢には、明治14年、今からちょうど141年前の1881年10月3日に到着しました。お付き人を含め、約700人近くにいったそうです。まず、桑山の旧万世小学校の庭でご休憩をされました。栗子山隧道では栗子トンネルの開通式が行われました。今では、このトンネルも崩れて通れなくなりましたが、当時は最新の技術と機械を使って、山形県初代の県令三島通庸(みちつね)の命により開通しました。当日の開通式では、明治天皇が約870mのトンネルを安全に通過できるようにするため、三島通庸は、荷車28両を出して石ころなどを拾う作業やトンネル内の清掃作業を何度も行いました。明治天皇はトンネルの米沢入り口付近で馬車から降りられたあと、このような神輿(みこし)に乗り、福島県の入り口付近で神輿を降りられ、山形県令の三島通庸の先導で、自ら歩いて福島県へ出られたそうです。 明治天皇は、次の年、その時の地元住民への慰労と感謝を込め、この栗子山隧道を万世大路と命名しました。ちなみに、万世とは、限りなく何代も永遠に続く世の中のことで、明治22年には、梓山、桑山、堂森、金谷、片子の5つの村を合併して、万世村が誕生しました。 

   次に、校歌の「つゆな忘れそ、この庭を」についてです。明治天皇がご休憩された「庭」に、明治28年記念にと「松の木」を植え、「万歳の松」命名しました。「万歳の松」は、桑山の向原の旧万世小学校跡地で、現在の高速道路、八幡原インター入り口付近にあります。

  次は、万世小学校校舎の歴史についてです。明治34年万世尋常高等小学校として、12月2日に新校舎落成式があったので、この日を創立記念日としています。昭和29年には、米沢市立万世小学校となり、昭和32年には2回目の校舎を新築しました。その当時の写真がこれです。その後、現在の場所の八幡原に3回目の校舎を新築移転し、現在に至っています。当時は、田んぼの中に校舎があり、学童の森の子園もオレンジロードの街路樹もなかったようです。 

 これで校歌にある「その名ゆかしき万世の郷」の意味が分かりましたか?皆さんは大変、格式高い小学校に登校していることに誇りを持ってほしいと思います。また、なんと戦国時代の武将、前田慶次ゆかりの郷でもあり、戦前はゼロ戦などの戦闘機が飛び立つ牛森飛行場の地でもあります。さらには、現在、東北では3番目の大きさを誇る八幡原工業団地の地元でもあります。こうやってみると万世地区は「歴史と産業のまち」と言えるでしょう。とも凄い地域ですね。これは昭和41年に制定された万世小学校の校章です。この万世小の校章に込められた願いの通り、子どもたちが、「万歳の松」のように清純で、鷹が羽ばたくように、たくましく成長する、そして永遠に続く万世の小学校であってほしいという先人の願いを大切にしていきたいものです。このことから、私は自ら未来を切り拓く子どもの育成を教育目標に掲げました。自律、尊重、創造です。これからも誰もが自慢できる、誇りに思える「地域に愛される」小学校を、私たち先生方と皆さんで築き上げていきましょう。  

 本日は、米沢市立万世小学校、創立121周年、誠におめでとうございます。以上で校長先生の話を終わります。